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【CNTR TALK 3】前菜B:メディアニュートラルに料理する|河尻亨一|編集はヒトを自由にする?

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混迷な時代をSurviveするための編集力

—KANSAIから何をどう発信するかー

河尻亨一(銀河ライター/元「広告批評」編集長/東北芸工大客員教授)



今回のテーマは「メディアニュートラル」について。つまり、全てのものがメディアだという考え方。
パッケージも人もメディアになる可能性があります。そこで「編集感覚(メディアの文脈を読む)」があるとヒトは自由になるとは、どういうことでしょう?





先ほど「雑誌の編集」ということでお話ししました(連載2回目)。取り上げたのは私の関わっていた雑誌ですが、それ以外の雑誌もコンセプトや目標、読者層、制作体制、ビジネスモデル等は違えど、それぞれの方程式を解きながら編集という行為をしていることに変わりはありません。色んな人がいるように色んな雑誌があるのです。

さて、ここで強調しておきたいのは、「ある企画(コンセプトやビジョン)のもとに集めて編む=調理する」、そのことで「価値=おいしさを作る」という行いは、雑誌やほかの紙媒体に限らず、すべてのメディアで発生するということです。

テレビであれ新聞であれラジオであれ、番組や記事といったコンテンツを制作し、それらを集めて日々メッセージを発しており、その行為としての本質は変わりません。“メディア”というものの根っこはそこにあると言えますし、逆に編集するからこそ、メディアが生まれるとも言えます。

メディアあるところにフレームとコンテンツあり

ここで「メディアと編集」という考え方を少しディープに堀ってみます。次のある風景をイメージしてください。公園のベンチに無邪気な笑顔の子供が座っている。その向こうのブランコのそばにテントが張ってあり、そこに包丁を持ったおじさんが佇んでいるとしましょう。皆さんが写真家なら、この風景をどう切り取りますか? 

人によっては、子供の笑顔にズームアップして撮るかもしれません。Facebookに上げると「いいね」がたくさんつく写真になりそうですね。一方で、社会派の方ならテントのほうに着目するかも。「このおっちゃんは何らかの事情で屋外での自炊生活を余儀なくされている。ここにはアンフェアな社会問題が横たわっているのでは?」などと推察しながら。その場合、ジャーナリスティックなトーンの写真になりそうですね。

同じ位置から撮られたとしても、この両者では、まるで写真のメッセージもイメージも変わります。もしかすると、もう少し引いた目線で、子供とおじさんを同じフレームに収める人もいるかもしれない。そうなると伝わる内容もまた変わってきますよね? 「包丁とか持っててヤバいのでは?」と受け取る人も出てきそうですし、公園の状況や写真のトーンなどによっては「実は家族なのか?」と思う人もいるかもしれない。

「子供」も「おじさん」も「二人が公園にいる」ということも、すべて事実です。しかし、切り取り方(フレーミング)で伝わるものがまるで変わってくる。意味(料理的には味)が変わるのです。これがメディアの不思議なからくりであり、編集とは「その枠(フレーム)の中にどんな情報を入れるか?」を判断し続ける作業でもあります。フレームがないとメディアは生まれません。

メディアにはすべてフレームがあります。少し抽象的に言うと、外身(フレーム)は中身(コンテンツ)を規定し、中身(コンテンツ)は外身(フレーム)と均衡する方向に向かいます。イメージが湧きにくい方は、一般的に洋食器に割烹は盛りにくいという受け取り方でほぼ正解です。この両者を分けて考えられないのがメディアであり、それ自体がメッセージというのはそういうことかもしれません。つまり、カメラのシャッターを切った瞬間、両者は同時に「ある」ということ。

もちろん、写真と雑誌では作り方が違います。雑誌の場合、一瞬で切り取るということはありません。しかし、そこで起こることは同じことだと思うのです。比喩として言うと、私の場合は、「広告批評」という“カメラ”を使って、クリエイティブ領域という公園に出かけ、同時代であるそこの風景を撮っていたということです。もちろん、カメラの機種が違えば操作方法も違います。撮るのに向いている対象やトーン、解像度も変わります。「機械が自分になじんで一心同体化する」ことも起こりえます。が、起きていることは同じです。

応用編にはなるのですが、このあとでご説明する「メディアとネットワーキングの関係性」「キュレーションの必要性」を理解するために、いまお話した「メディアあるところにフレームとコンテンツあり」という考え方を心の片隅にとどめておいていただけるとうれしいです。しかし、とりあえずは「メディア」に絞ってお話していきます。

編集はヒトを自由にする?

もちろん、同じメディアでも、「ムービー&音声メディア」(テレビ・ラジオ等)は、「活字&ビジュアルメディア」(新聞・雑誌等)と違う部分も大きいというか、操作方法の異なる部分に目が行きがちですよね? 前者では編集ではなく編成と言ったりします。しかし、選んだ情報を“枠”の中に発信しているという意味では、行為としての本質はやはり同じです。個々の番組自体も“フレーミング”によって成り立っているわけですから。

たとえ生放送のトーク番組であっても、「だれをキャスティングしているか?」「司会者がどんな質問をするか?」「どの位置で撮るか?(俯瞰かズームか?)」といったことも編集でありフレーミングですし、何より映像メディアには「時間によるフレーミング」というものもあります。

なぜ、こういった話をクドクドするかと言うと、2010年代の編集シーンでは「メディアニュートラル」に発想したほうがトクすることが多いと私が考えているからです。「フラットな目線で捉えてハイブリッドに活用する」ということ。そうすると発想が自由になりますし、選択肢も広がるという戦法です。同レイヤーで考えることで、混沌とした情報環境をマッピングしやすくなり、「各メディアの文脈の違い」も意識化できます。

この考え方に立ちますと、「この世にあるあらゆるものがメディアになりえる」ということもイメージしやすくなると思います。プロダクトも街もメディアになる可能性を秘めています。私はスーパーでいろんな食材のパッケージを観察するのが好きなのですが、それはデザインも含めてどのように情報を編集・発信しているかが気になるからです。

長らく愛されている食品のパッケージは、見れば見るほど「ほう」と思わされることが多いですね。飲料などは商品リニューアルも多いのですが、それも雑誌の表紙のように眺めています。「今回はこういう特集なんだな」という感じで。「その商品の方程式を解くパッケージ」という目線で見ているわけです。ブランドはその積み重ねから生まれるというふうにも思います。

そのように考えていくと、「人」はもっとも生々しいメディアですね。セルフプロデュースというのは一種の自己編集ですし、タレントを広告に起用するのも、商品にその人物のメディア力やイメージを重ね合わせて活用するという考え方です。

つまり、「編集感覚(メディアの文脈を読む)」があると、やりやすくなるビジネスは多いということです。さらに言うと、そのスキルを鍛えることで社会の読み解き力も上がるということですね。言うなれば、情報環境の地図を作ることに近い。枠(フレーミング)の機能を意識することで、「ここまでならオッケー」なラインも見えやすくなります。ギリギリを狙いやすくもなります。

そのラインは個々人によって違うわけですが、それを知っていると今度は枠の外にも出やすくなる。「従来の殻(枠)を打ち破るチャレンジはどこにあるのか?」を把握できるわけです。地図がなければ新しい山には登れませんよね? いくら体力がある人でも闇雲に登るのは危険です。そういったリスクを把握したり説明するのも編集者の役割です。

話がちょっとややこしくなってきたので、再びシンプルに考えましょう。編集は基本「組み合わせ」のことですね。あるイメージを追求しながら、脳内パズルを解いている感じというのか。メディアという枠の中で、創意工夫しながら、パーツとパーツがピシッと組合わさったときが気持ちいいわけです。それがソリューションです。まれにその解決がとんでもなく新しい世界を見せてくれることもあります。その場合、人はその解決策をイノベーションと呼んだりします。

前回お話したコラボレーションというのも編集的組み合わせに近い感じがありますね。ブランドとブランドの組み合わせで別のおいしさを作っているわけですから。


例えばとっても評判のいいレストランを考えてみましょう。


評判のいいレストランで考えてみましょう。あなたはなぜその店を選ぶのか? やっぱり組み合わせは大きいですよね? 味や値段はもちろん、食材・メニュー・スタッフ・雰囲気や導線、立地、物語etc…それらのすべてが合わさって、“行列のできるお店”というのができています。そこには提供するものに見合った空気(文脈)が流れています。

ですから一流のシェフは一流の編集者だとも思うんです。予算の範囲の中で素材を吟味し、出来上がりをイメージし、材料を整理して、順序よく調理し、スパイスも効かせて、お皿に盛る。そこに生まれる“おいしさ”でビジネスを成功に導いているわけです。


シェフやオーナーが、目指すところにきちんと着地できているレストランを名店と呼ぶのではないでしょうか。名店と言うと、至高の味やおもてなしを目指す的な店をイメージしやすいですが、流れ作業を導入して効率を重視するチェーン店も、メディアニュートラル的な視点からはフラットにマッピングと私は考えます。三ツ星レストランもラーメン二郎もすごいわけです。

つまり、長年成功しているということは、諸要素(リソース)の組み合わせに対する意識がハンパない。わかりやすく言うと“こだわり”でしょうか? そのことで、お客さんにおいしさと栄養と、この店で食べてよかったという満足感(価値)を提供しています。

編集をバージョンアップさせるには?


レストランだけでなく書店にも言えることですが、書籍のセレクトと並べ方で売れ行きはかなり違うそうですね。体験も含めた付加価値がないとモノもヒトも動きにくい時代ですから、珍しげなモノを集めてただ差し出せば喜ばれる時代ではない。「珍しげなモノ自体」その数が減っているというか、よほどのモノでないと「それ自体の価値」では評価してもらえません。

「いいモノを作っていれば認められる」という発想は、半分正解ですが半分はずれです。つまり、そのヒトの琴線に届くように情報を“編む”必要があるということで、それはあらゆるビジネスに関わりのあることです。

編集基礎・中級編はここまで。今日のお話も5合目あたりにさしかかりましたので、一度まとめましょう。編集は情報を“集める”ことで、パッケージ化された「意味」と「知識」(栄養)を提供します。それと同時に、パッケージ(フレーム)の中に情報を組み合わせて“編む”ことで、「意義」と「知恵」という価値(満足)をも生みます。

その行いの積み重ねと時代とのかけ合わせにより社会やコミュニティをガイドする(コースを提案する)のが、メディアの機能であり責任であり面白さです。それがなかなかスリリングなこと。編集はヒトを自由にします。ブロックで好きなものをこしらえたり、着せ替え人形で遊ぶことに熱中している子供とモチベーションは近いんでしょうね。それはいつの時代もヒトが本能的にやってしまう行為とさえ私には思えます。

しかしながら、そういった「編集」だけに専念していればいいという時代は実は終わりつつあります。いかようなモノであれ、編み方の「こだわり」だけではもはやテープは切りにくい。メディアニュートラルなフレキシブル発想(すべてがメディアになる)は依然有効ですが、それでも解決しない課題が山積みです。そこへのアプローチとして。「ネットワーキング」と「体験」を組み込むことで、編集という行いをバージョンアップさせることが必要なのでは? と私は考えています。それが次にお話する「キュレーション」です。

>>MENU
【1】食前酒:自己紹介にかえて
【2】前菜A:編集とはどういうコトか?
【3】前菜B:メディアニュートラルに料理する
【4】メイン:キュレーションとは何か?

河尻亨一 / Kawajiri Kouichi
銀河ライター主宰 / 元「広告批評」編集長 / HAKUHODO DESIGN / 東北芸術工科大学客員教授
1974年生まれ、大阪市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。雑誌「広告批評」在籍中には、広告を中心にファッションや映画、写真、漫画、ウェブ、デザイン、エコなど多様なカルチャー領域とメディア、社会事象を横断する様々な特集企画を手がけ、約700人に及ぶ世界のクリエイター、タレントにインタビューする。現在は雑誌・書籍・ウェブサイトの編集執筆から、企業の戦略立案、イベントの企画・司会まで、「編集」「ジャーナリズム」「広告」の垣根を超えた活動を行う。

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写真:綿村 健


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